山野浩一「血統理念のルネッサンス」
昨日のエントリーで紹介した「ドイツ・ダービーの父系」は、1993年に『週刊競馬通信』に連載したものです。なぜ書こうと思い立ったかというと、山野浩一氏が80年代半ばに『優駿』に連載した「血統理念のルネッサンス――レットゲン牧場における系統繁殖の研究」に触発されたからです。同作には、深い知識と洞察にささえられた思考が、氏独特の直線的な文体のなかで展開されており、読了後に不思議な感慨を覚えます。
80年代に発表された血統関連の連載のなかで、私が傑作だと思うものは以下の3つです。
●笠雄二郎「血統あれやこれや」(『週刊競馬通信』)
●門井佐登宣「競馬三国志」(『週刊競馬ブック』)
●山野浩一「血統理念のルネッサンス」(『優駿』)
いずれも雑誌に掲載されたまま再録されていません。嘆かわしいかぎりです。雑誌の連載、という形にとらわれなければフェデリコ天塩氏の『馬事研究』(第1号、第2号)も当然含めなければならないでしょう。
山野氏はドイツ型馬産を最上のものとして礼賛しているわけではありません。「私にもアメリカ型馬産よりも、ドイツ型馬産が優れているとは言い切れない。特に競馬というものの発展はコマーシャリズムなくしてあり得ないと思う。私のドイツ式系統繁殖の提唱はあくまでも生産のバランス上のものだ。」と述べています。
もちろん、ドイツ型馬産について述べているわけですから、そこに高い価値を認めていることはいうまでもありません。ドイツとアメリカの馬産を比較する際、山野氏は音楽や映画を例に採ります。かなり長いのですが引用します。
「よくドイツはGNPや輸出競争で日本と争う国だし、それでいて日本のように財産の備蓄も食料の自給力もない国ではなく、いわば日本型とヨーロッパ型の両面で富める国といえるのに、どうしてアメリカのように競馬が繁栄しないのかという人がいるが、同じようにドイツの音楽の才能を動員すればいくらでもミリオンセラーぐらいできるということがいえる。現実にドイツ音楽の底辺から育ったビートルズやアバのような超大物タレントはアメリカからは出ることはなく、いわば技能としては大きな差があることは事実であろう。だが、こういう問題は単に技能や経済の問題ではなく、要するに音楽や競馬に何を求めるかという人間のアイデンティティの問題なのである。いかにグスタフ・マーラーが美しい旋律を作るからといって、マウント・バーニーのようにやれといっても無理な話で、多くのドイツ人は自分の音楽を作って金を儲けようとは思っても、金が儲かるように音楽を作るということは出来ない。アメリカへ渡ったバルトークは食うや食わずの生活をしながら、プロデューサーの差し出す巨額の金を突き返すわけである。まして食うに困らない人なら誰がそんなことをするだろう。アメリカのような商業的繁栄にはアメリカンドリームという虚構が必要なのであり、経済面と精神面の貧しさがなければならない。フリッツ・ラングにスピルバーグのような映画は作れないし、シュトックハウゼンにYMOのような曲が作れるわけではない。だがハリウッドの監督たちはラングの映画技法を学ぶか、ラングから学んだ人から学ぶかしているだろうし、YMOはシュトックハウゼンなくして存在しえない。たとえドイツのものが至上のものであっても、繁栄するかどうかとなるとまた別問題なのである。ただいえることは、もし我々が学ぶということをするとするならば、やはりスピルバーグよりもラングを学んだ方が良いし、YMOよりもシュトックハウゼンを学んだ方が良く、馬産に関してもアメリカよりはドイツに学んだ方が良いだろう。」
この意見が合っているか間違っているかといったことは瑣事にすぎません。この鮮やかな独断こそが山野節であり、最大の読ませどころです。それを記すことが評論家のなすべき仕事なのだろう、と思います。
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